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2016年のお神籤




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この年は9回中3回が大吉だった(17.6%)。大吉率20%の確率分布図はこんなぐあい





関山神社


2016-01-01





知立神社


2016-1-5





猿投神社



2016-2-3





熱田神宮


2016-4-9
仕事で、新人の教習を受けている時「自分の身は自分で守らないといけない」と教わった。それは仕事上の話だが、移動表には「自分の名前をきちんと書かないといけない」と。





岩津天満宮


2016-5-8
「ひぐらしの 山路を暗み 小夜ふけて 木の末ごとに 紅葉照らせる」





熱田神宮

「苦しみより逃れる時来れり。万事怠ることなく勉めれば次第に運気は開ける。思う事は早くする方がよし。善は急げ。」(熱田神宮)
2016-6-4

「苦しみより逃れる時来れり。万事怠ることなく勉めれば次第に運気は開ける。思う事は早くする方がよし。善は急げ。」
昼勤昼勤昼勤休み休み夜勤夜勤夜勤休み休み昼勤昼勤..... という昼夜勤のシフト制の派遣から逃れられるのであった。やめるのは一か月前に言えばよいのだけど、言い出せずにいた。結局いつ弟夫婦がヨーロッパに入るかタイミングもわからず、一ヶ月前に言うことが出来ず上司がかなり不機嫌。騙そうとしているわけではないけど理解されるはずもなく。20日前では次のシフトが組めないから迷惑がかかった。でもあの激務を4か月半頑張った。






フランスへ



パリのエッフェル塔


7月からフランススイスオーストリアリヒテンシュタインギリシアノルウェーフランスを巡った





ジュネーブの教会
もう二度と行けないと思うと今更感傷だ



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熱田神宮



2016-9-17
日本に帰ってきた

このときもそうだが海外旅行から帰るといつも運気衰退している。旅行の仕方が悪いのだと思う。散財し過ぎなのかもしれないし、親が散財しすぎるのをケチらせすぎたのかもしれない。もっと心に余裕をもって旅しないと意義が薄いのかもしれない。あとは海外旅行にいくとモラハラの信者に因縁つけられる。それが大きいのかもしれない。





猿投神社



10-15
「夕立の 雨は見る ? はれ行きて 木末涼しく せみのなくなり」







岩津天満宮



10-22
「天の原 あかねさし出づる 光には いづれの沼か さえ残るべき」 - - どの沼であれ氷が張ったまま残っていることはないでしょう。
11月に内藤商会に再び派遣で入ったけどそこの現場がすごいよかった。1か月で急に派遣期間が終了になってしまったが(よくある)。OLやパートの人たちと仲良くなれた。友達? オッサンからは貸した2万返ってきてないけど…。








通ってるお寺のモラハラの実例集 レリハラ(宗教的ハラスメント)体験談

レリハラ=Religious harassment; レリジャスハラスメント。モラハラ(moral harassment; モラルハラスメント)の宗教団体バージョン。日本語で簡単に言うなら「宗教的いじめ」という意味。
ハラスメント=広義には「人権侵害」を意味し、性別や年齢、職業、宗教、社会的出自、人種、民族、国籍、身体的特徴、セクシュアリティなどの属性、あるいは広く人格に関する言動などによって、相手に不快感や不利益を与え、その尊厳を傷つけることを言います。harass=(しつこく)悩ます,困らせる。
自分の通っているお寺は臨済宗妙心寺派の伝統仏教。地元では有名な大きい仏閣。そこの本堂は良いパワーがある感じで霊格も高い。だからこそ、統一教会とか創価学会その他新興宗教よりも異常なレリハラ体験ができた。なぜなら、それら新興宗教とか自己啓発セミナーとか霊能者グループはどこもかしこも霊気がおかしいが、その分信者は馬鹿になってるから。どうみても犯罪になることをし、誰が見ても倫理的にズレてる発言をする。霊性がおかしい分20年もすれば精神科へアデューなのでどうでもよい。でも伝統的な神社仏閣で大きいところは基本的には清くてパワーがある。神仏の度量は深くて、どんな人格をしていても「日本人だから」とか「御子であることには変わりない」という。ということはモラハラ加害者はどんなことをしても奉仕をすれば罪は晴らされプラーナは整えられいつまでも健康で笑いが止まらずにハラスメントができるということ。そして頭が良いままなのでモラハラ・レリハラの段取りや手口は、それが生業となればどんどん深まる。被害者は延々と魂を蝕まれるので他の人の数倍はお経を唱えたり祝詞を唱えたり筋トレをしたり歩いたりヨガやストレッチをしたり参拝時間を長くしなくてはならなくなる。時間を一番大切にしている人であっても。悪代官様は信用が厚いので被害者は耐えるしかない。病気になっても。…それがあなたには可能か?無理だというのなら読んで満足して下さい。自分より悲惨な人がいるんだなと思うと楽になるでしょ。いやいや私なんてもっと酷いですからという方はメールを下さい。合理化したり理解できない方はとりま10回読んでみてください。今世では年齢や立場的に無理な場合は来世では内向型HSPに産まれてモラハラの被害者としてその定めを全うして下さい。宗教団体や信者にとっては都合が悪い場合、レリハラの被害に遭うものが愚痴を垂れようものなら『頭に曇りがかかっているように見える』とか『先祖の因縁があって』等々豊富なプレテクストで説明をつけられる。しかし自分の宗教を肯定するためにレリハラを正当化する人は来世では病気になったのちそういう虐め体質のところに誘導されレリハラの不条理を体験する事になるのが因果応報の順当な流れ。万物は流転する。「あくどい人とのご縁は自身を成長させる」というお釈迦様の教えがあるので、そのダークトライアドという心理学的には「最も悪い・最も危険」と定義される人格者との邂逅は、自身の人格を最大限に成長させるはず。ありがたいことだと思う。
モラハラ悪代官のA様がやたらと「自分には霊感はないけど」と声高に主張するので怪訝に思っていたら管長様が「霊感のすべては魔である」と教えているからだった。(パワースポットに行ってパワーを感じる人は皆「魔」なんだろうか。本堂に入って力を戴くのは魔になるのだろうか。岩津天満宮の神主様は崇敬者大祭で神主様は「この神社も神の気というのかパワーというのか御稜威というのかわかりませんが、そういうものが非常に強いと感じられるので、ぜひ皆様御参詣をしていただきたく思います」と挨拶されていた。魔に憑かれていたのだろうか。自分も御稜威を感じるが魔だとは思えない。たしかに声が聞こえたり何かが見えたりするのは超越願望があってのものかもしれない。しかし力を感じるとか気を感じるのは日常茶飯事である。これを魔だとされると、どういう意味の魔でしょうか。五感は神経細胞から先は脳の解釈で仮想だけれど、霊感も仮想だということにまだ気づいていないという意味の魔でしょうか)(中世の魔女狩りは、自分が認める者以外が聖人であってはならないという心理や唯一の勝ち組根拠が崩れる恐れから発生した。イスラム教はキリスト教を一生懸命に排斥しようとする。ムハンマド以外に聖人がいてはならないから。エホバの会は全ての霊感を無に帰している。一方で統一協会は霊的な体験をさせることによって信者に仕立てあげている)。

「有馬君はパソコンでなんでも調べられるからよく知っているだろうけど」と誉めるように何度も言われ続けていた時期があった。モラハラのA様が珍しく僕の事を気分良く褒めてくれてるなぁ、と思った。それから約半年後、ハッピーかいの反省会で管長様が「最近の人はインターネットでなんでも知ることができるから『自分は知っている自分は知っている』とわーわーとなってしまう」と言っていた。あとになって全てが紐解ける。「最近の人はインターネットでなんでも知ることができるから『自分は知っている自分は知っている』とわーわーとなってしまうんだぞわーわー」となっていたんだな。根本的に何が違うんだろう。
しかし本を読む事は修行にはならないのだろうか。知識を得たら人はそれを誇るが、坐禅をして修業をして意気衝天するのと同じではないだろうか。創価学会は情報規制を敷いている。知識を得られると都合が悪いんだろうな。

「教え」への従い方にもいろいろとある。その教団内で高い地位に居るために教えから離反した行動を取らないようにする従い方もある。「周りの人間が自分のスキをねらっている。気のせいではない」と自意識過剰に。教えから外れた人を糾弾する手口がブーメランで翻ってきている。

指導者の善良な教えにハッとして神々しく見えている、その裏返しでその教えを知らない人がいたら「まだ教えを受けていない人」になる。宗教団体ではそのように地位が確立していくようなところがある。「包丁で水を切ってはいけない」も、そのインプリンティングで包丁で水を切っている人を見たらなにも知らない人に見えてしまう。

四つ足は飼ってはならないという教えがある。うちが犬を飼っている事にたいして「有馬君の家には大きな犬がいます」。しかしラオスのお寺は猿を飼ってバナナをあげていた。ラーマヤナに猿族が登場するから。伊勢神宮には白馬がいた。四足を飼ってはならない事を知らないからなのだろうか。神社の狛犬は。稲荷の眷属や普賢菩薩や文殊菩薩が乗っているのは。四つ足を飼ってはいけないというのは動物を飼うのは可哀想だからという観点なら許せるけどマウントに使われるとなんのための教えだろう。
倫理的な考えを聞いても同様に差別の構造が生じる。今の日本では結婚式は披露宴に何十人も呼んで見せびらかすためのものになっている。意識の構造に問題があるようだ。著名人は「日本は滅ぶよ」と言うらしい。ドイツの結婚式は十人ぐらいで、本当に祝ってくれる人だけで行う。でも台湾は何百人と結婚式に呼ぶ。それはなんらかの村社会の延長線上にあるものだろう。披露宴をする人にたいし「見せびらかす感覚でいる」と上から見下ろす信者がいる。宗教の付き合いしかなさそうに思える。

道徳的スタンドプレーをやっていることに自覚のない人に自覚させるために、一度幸福の科学とか統一協会に入信ツアーをやった方がいい。布教されて道徳的スタンドプレーをされて自分がどう感じるを体験しないといけない。

前髪を上げた方が良いと、統一協会でもお寺でも言われた。夏だし短く切ったら、自分の言うことに従った、という目で見られた。まったく関係がない。自分が宇宙の中心なのだろうか。

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2016年2月28日(日) ハッピーかい
A様はよく身辺の調査をするが、人のことが好きそうである。人の悩みとか不幸話を聞く時の目や、ターゲットを凝視する時の目つきにそれは現れる。僕はA様の前の席に座らせられる。支配・観察しやすい位置に。それを断ると「ココ!!」と強制的な声で座らせられる。大お庫裏様がやっているから自分もやって良いのだろうか。

作業している場所ではよく「大事件」が起こる。外宮様の裏の側溝のふたが、下に支えがなくて安定してなくて、足を乗せると転びそうになる。僕がその側溝のふたを開けて掃除をしている時、A様はこちらを観察していた。その後、佐藤様がその側溝のふたの上を歩いて「大怪我」をしそうになった。それをA様が反省会で主張していた。なぜその場所を歩くのか。それはその通路の方に、A様は落ち葉の入ったゴミ袋を他の人に持って行かせていたからである。落ち葉を捨てる場所はすぐ目の前。「自分はもう(そんな目の前までも)歩けないから」と笑いのネタにしていた。そのときに違和感を感じた。その後、なにやらA様が騒いでいたからあとで佐藤様に「誰か怪我しそうになったのですか?」と聞いたけど「いや?」という反応だった。

「ハッピーかいのお陰で有馬君もしゃべれるようになったね」と言われた。「ハッピーかいのお陰で」。僕の場合、性指向が原因の場面緘黙症なので、話をする相手によるし、歳を取れば変わってゆく。木神様のお陰に感じることもたしかにあるけど、それがすべてと決めつけられると反論したくなる。反論しないと反動形成が生じる。あくまで「ハッピーかいのお陰で」「お薬師様のお陰で」と念を押されると、自然にわき起こるはずの感謝の念は生じなくなる(あえてそうやって相手を追い詰めてゆく事を目的にしている場合もある。失言を求めている場合もある)。

宗教団体や慈善団体は素直な人や優しい人しかいないし、言葉を額面通りに受け止めてくれる。善い教えが隠れ蓑になっていて、簡単に根回しをする事ができる。その行動や考えを見抜いてしまった場合でも、「人のことをそんな風に解釈するのは、自分自身、身の修養をなされていないから」という倫理が発動する。そんな指摘をしたら「ご祈祷を受けた方がいいわよ」と言われるのが目に見えている。

2013年頃、台湾で旅客機?の墜落で日本人が亡くなったことを小栗さんと話していたとき「日本と台湾の関係が悪くなったからそういう事が起きたかも」と僕が言ったら、小栗さんは「そんな怖いこと言わないで」とおっしゃった。そのとき、信者さんはあまり現実を見たくないんだなと思った。だからA様の本質など到底見る事はできない。「それは信仰に沿って有馬君のためを思って」とよい風に解釈して終わる。モラハラの加害者は周りがそういう風に言ってくれると都合が良くて仕方ない。職場のロッカーから繰り返し財布から札を抜いていたサイコパシーの社員19歳もそんな風だった。相手が弱いと笑いが止まらない(支配欲が満たされる)。

慇懃無礼とかモラルハラスメントを物事を良き方向に解釈するならば、未婚の人の試練とか。お寺では結婚出来ない人にはなにかしらの因縁がある。だからその行為に正当性があるし、結婚しない人は生涯、舅や姑の嫌味や差別的価値に耐えなくて済む。自分は結婚しないからそれをお寺で経験させていただいている。結婚している人はそれに耐えているのだからと思えば無理矢理納得できる(ただ慇懃無礼とかモラルハラスメントそれ自体を良い方向に解釈するのは事実の捏造解釈)。

杉浦様の講師様ご紹介のとき、司会の間違い?にたいして、何も面白くないのにA様だけやたらと大声で笑っていた。何故とてつもない爆音を生み出して笑うのだろうか。そういう人は職場にもいるからネットで調べてみると、「豪快に笑う人は何かを企んでいる」と書いてあった。人間の肉体は自然にはそういう笑い方にはならないようだ。杉浦様は講話で「世間にいる霊能者は、せいぜい『おうかがい』までで、すべて偽物」だと話しはじめた。即答だから本物なのだろうか?。『神仏は直接人には入らない、トランス状態だと雑霊が入りやすい』という教えもあるけど。出口王仁三郎も偽物。その二分法も気になる。その方には悪意がないが、話すとき悦に入りやすい。背後で誘導されている。茶色いのが見えてくる。A様はどす黒い欲求で興奮気味だった。しかし、自分とこの教祖様を否定したらキレまくるのに、他人の師匠はいいんだな。
青年会のてらこん『先輩のお話を聞こう』のA様夫人のお話にも引っかかるものがあった。昔の言葉で家にひきこもる事を○○と呼ぶらしい。鬱になって人と話せなくなり、服装もジャージで(いけないのだろうか)髪の毛も伸び放題の人の事にも何か差別用語が存在していた。差別用語が豊富。

反省会の前、ご詠歌堂に入ると席にA様と安達様が座っていた。僕が席に座るとき、「お前はどこ座るの?」と普段とは違う声のトーンで聞いてきた。人前では「有馬君」だが、「有馬」となり「お前」となる。誰もいない場所では豹変する。

反省会でどんな政治的な考え方を支持しているか管長様に聞かれたとき僕は「環境問題を考えてほしい」と言った。謙信禅師様の奥様もゴルフ場は一番環境に悪いから「お父さんゴルフやめなさい」と言われるとのお話を聞けた。同世代だから同じ価値観を有しているのだと思う。するとA様が横から「環境問題には流行り廃りがありますよね、」と入ってきた。「リーマンショックで不景気になると環境問題についてどの企業もアピールしなくなった」とのこと。(他人の経験を我が事であるかのように感じる傾向のことを「向社会的共鳴」というらしい。また、専門家が言うには「利他心は従来考えられていた以上に生まれつきの性質なのかもしれません」とのこと。宗教の教えは向社会的共鳴を促している。その教えは、生まれつき向社会的共鳴を持ち合わせている人の心を促すけれど、生まれつき向社会的共鳴を持ち合わせていない人にたいしてはいびつな形成を促す。その反動で、向社会的共鳴をする者にたいしてイラつくようになる。そのフラストレーションがハラスメントにつながる。相手の方が強ければそういう関係にはならないが、生まれつき向社会的共鳴が備わっている人の多くは気が優しい。弱くてタゲられやすい。生まれつき向社会的共鳴を持ち合わせていなくても、向社会的共鳴を促す良い教えに感銘を受ける事もある。乗ってる車、ご職業、家族構成等の外的要素からヒエラルキーを作っている人は、宗教的に上の人が向社会的共鳴を述べれば「ヒエラルキー的に」感銘を受ける。しかしそういう構造だから下位層がその様な向社会的な事を述べれば苛立っている。)

反省会で「知立の神谷さんはなんでも修繕してくれる。」「すごく器用でなんでもできる」と管長様に褒められていた。なんども褒められていた。
あとで倉庫に行った時、佐藤様が「天井からつり下げて天井を作らないと雨漏りは避けられない」と判断すると、A様は「神谷さんにお願いしましょうか」と持ち上げていた。佐藤様は「…それは業者に頼まないと。リフォームをよくやってるような」と言っていた。

ハッピーかいに新しい人がきた。内田さんというお父さん+娘さん2人。A様は「あのような人を増やさないといけない。『陰日向無く』て」。と言っていた。「陰日向」をこちらにたむけている風に。

道具の倉庫に行くとA様と女性の信者さんらがいて、僕が来た事に気づいた瞬間、A様の口から何かが発せられた。女性の信者さんは自分たちに向けられた言葉かと捉えて「まーた意地悪なことを言う」と笑っていた。標的が違うので、A様はそのあとでフォローしていた。

A様のことを寺以外の人に相談すると、「そういう人にはなるべく近づかないようにしたほうがいい」と言われた。なるべく距離を置いた方が良い。でも近所だし向こうから攻撃をけしかけてくるからどうしようもない。帰り際、A様は何か言いたげに寄ってきた。「また車で家まで送っていこうか?」。向こうから寄ってくる時はなにか言い聞かせたい事がある時である。案の定、「お父さんは新しいクラウンになったね!」。ほんとうによく知っている。他人の家の車なんて本当にどうでもいいのに。「よくそんなことまで知っていますね」と切り返したらそこで話は終わった。いつもはそこから身辺の調査が始まる。何の目的があるんだろうなぁ。今回はクラウンは話のダシに使われていた。新しいプジョーが誰の車かが気になっていたようだ。次の機会にプジョーを穢すようなことを言われる。

以前、A様は仕事の付き合いで東京モーターショーに行くと言っていたが車には興味がなさそうだった。車には興味がないのにその人が何に乗っているのかには興味がある。なぜか。

次の日、夜中眠れなくなり、徹夜で僕は新しい会社に入ることになった。あの人に関わると重いもの(霊障)を背負う。自分の場合は不眠症だから眠れなくなる。悪い部分が悪くなる。障りとか呪いは長いこと体に残る。でも本堂の仏様のお徳は水のようにすぐに流れていってしまう。日曜日、一畑山薬師寺には行かない方が良かったのだろうか、行った方がそれでも良かっただろうか。秤にかけてしまう。

自分に霊感のない人は霊感の強い人を軽んじ過ぎかもしれない。自分も電磁波過敏症じゃないゆえ電磁波の悪影響を軽んじているから人のことは言えないが。
それに対しての感受性があるのは本人にはどうしようもない。電磁波過敏症とか霊感持ちはマイノリティ。宗教団体でも霊感持ちはマイノリティなのでいろんなことを言われる。そのプレテクストも豊富。なぜ電磁波過敏症は許されるのに、霊感があったらいけないんでしょうか。何が違うのだろうか。

2016年5月29日
「三班の班長の安達様は総合責任者になりました。お願い申し上げます。」等とA様からは遠回しの圧力が来る。僕が班長にならなければハッピーかいが成り立たないようだ。モラハラはパワハラと違い、隠蔽により成り立つので、常に間接的な陥穽が設けられる(相手の被害妄想により成り立つように出来ている)。その習慣・習性により、そのような誘い方になるのだろう。また、ハッピーかいでは何故かA様と同じ班になっている。班のメンバーはどうやって決められていたのだろう。相手を支配する目的のある人は「有馬君の事は私が面倒を見ます」と言う。宗教団体やボランティア団体はモラルハラスメントの温床になりやすい。常に身近にいる。

2016年6月26日
奉仕の作業から戻る時、使った道具を年配の方々が持って歩いているのを見てA様は咄嗟に「わたくしが持ちます!」と買って出た。すぐさま「有馬君にも持たせてよ」と言っていた。僕が掃除道具を持っていないのを見てそういう行動に出る。「お殿様も持たないと駄目なんだよ」と笑いながら。奉仕中、僕はずっとグレーチングを取り外す作業をやっていたが、それで疲れて、一瞬手を抜いた隙にそうもっていかれる。新しく来たおばさんに「若い人がいるといいねぇ」と褒められた瞬間、「若いってだけでいいねぇ」と相槌を打つ。
新しく来た人は、10時半頃には既に僕が定職に就いていない事を知っていた。そういう情報はいち早く流布される。「いろんな職場に行きたい」と言えば「なにが!!」と笑われる。全否定できる相手。次の話の流れに来る「結婚」と「独身」についてはもうかませ飽きたのか直接的には表現されなくなったが、「今日は家に孫が来ています」「うちのY美は娘が2人産まれました」と婉曲的に言ってくる。そういう題材が、相手の存在価値を否定するため、自慢するための材料になっている。

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電話口だと1対1なので直接的な表現になる。
ハッピーかいの班長を受け継ぐようA様から電話があったとき、「有馬君のお父様は退職後は家で煎餅食べてテレビ見て、ゴルフばかりしてるけど、僕は舞踊部の部長やら奉賛会の理事やら○○やら○○やら(中略)で忙しいんです!ワハハ」と言われた。2回言われた。電話口では相手は話を聞き取れていないかもしれない。大切な用件なんだろう。だから念を押して2回言ったのだろう。でもなぜ僕の父親が定年退職して家に居ることを知っているんだろう。小学校のソフトボール大会ぐらいでしか面識がないのに。本当によく知っている。
「有馬君のお父さんのように遊んでいないから(笑)。自分は定年を迎えても仕事を辞められないんです!。奉賛会の推進委員会もあるし、舞踊部もあるし、忙しすぎて手が回らないの。どこかが手抜きになってはいけないし、自分ばかり管長様にお会いして、実際文句言われてるんです(笑)。助けていただけないでしょうか。」
「しんちゃんは?」と聞いたら「しんちゃんは仕事人間ですから。日曜日も仕事がある日もあるし、なかなか来れないと思う(有馬君とちがって)」。他の候補について聞かれるのも想定内の様子だった。僕は忙しくないという前提でお願いされる。断ることの出来る理由がない。以前、「やる気がないから」と断ったら「だったらやる気になろうよ!」と言われた事がある。録音しておけばよかった。お薬師様のお姿から録音するように言われていた。法律的にも ストーカー規制法 第2条第1項第1号 『監視していると告げる行為』 に抵触している。

2014年7月28日
五万石の誘いの電話がかかってきた。「その日は仕事があって行けない」と言ったら仕事の内容を訊かれた。
「今は工場で働いています。」
「へぇそうなんだー」
「派遣ですけど。」
「派遣でもいいじゃない。どこに通っているの?」
「鳴海です」
「でもよかったよ。あなたに合った仕事で。」
あなたに合った仕事でというのはどういう意味だろう。

A様から電話がかかってくる時、作為的なタイミングに思える事が多かった。僕が無職の時には夜11時に電話がかかってきた。
「今藤田屋を通過したところです(笑)(笑)」
「そうですか」
「今仕事の帰りです(笑)」
サマーフェスティバルのどうでもいいような音響の段取りの用件を伝えるためだけに電話をかけてきた。別に今じゃなくとも良い内容だった。「OKの確認を取る」ための電話だったらしい。「詳しいことはI様から当日ご連絡がある」のなら、なぜ今、電話をかける必要があったのだろうか。
その日から1、2年前にも「今名鉄に乗るところです」「さっき仕事を終えたところです」と電話がかかってきていた。毎度、同じ事を繰り返しているけど、やった側は気分爽快になって忘れているんだろう。やられた方は覚えているが。自分は仕事をやってこんなに苦労をしているのだから、君ももっと頑張らないと駄目だよ、という大義名分の通りならありがたいと思えるもの。応援してくれているんだろうなと。でもまるでそのような清浄な作為は感じない。薄黒い意識ばかりを感じる。

今は着信拒否しているからもういい。ただ他の人を遣って仕掛けてくる事はある。正月の奉仕の誘いを「念を押して※」受けたけど断ったら「A様に頼まれたんだけどぉ。。。」という言葉がその人から漏れてきた事がある。お寺でお寺の事を否定するのはタブーである。否定したらその人が絶対的に悪者に成る。だから拒絶感を増幅させるハラスメントの手法もあると思う。

※ 「青年会で入ることは承知しているけど」とのこと。その上で「一度断られても念を押して」とA様に指導を受けていた。連れてくれば手柄になることを勘案する信者は、断われない人を特に勧誘したがる。それは人徳でもなんでもないが。また、『お寺にお徳を積む事』『お寺に連れてくる事が最大の徳積みである』という教えを盾にすれば、好きなだけ相手を追い立てることができる。相手がそれにより不具合の念を抱く事は不信であり悪い事とされる。
僕はこのお寺に家族や友人を連れてくる気にはならない。
青年会の成人式で、お楽しみ会は自然な笑顔だった女の子も、勧誘の段になると急に作られた笑顔になった。ノリが良かった男の子らも、その時は青年会の勧誘に楽しく切り返していたが、後日、「そういうのが目的じゃない!」「なんで業務連絡(勧誘)ばかりなんですか?」と怒りのクレームがきたらしい。こちらに悪意がなくてもそうなる。
ましてや悪意のある人の場合、僕が人を連れてくれば「有馬の連れてきた人だから困らせてやろう」「有馬についてきた事を後悔させてやろう」となる。遠慮なしに勧誘、正しい事を説き伏せて、相手を抑圧する。遠回しに変なことを吹聴される。嫌がる顔をするに決まっているが、「お寺に人を連れてくることは最高のお徳積み」「人集めは誰もが嫌がる役割ですよ」という大義名分が隠れ蓑になる。また人の善意を疑うことは恥ずべきことであるだとかいうのがブーメランしてきて人の偽善を疑えない。レリハラはその構造を弁えている。むしろモラハラ・レリハラを見抜けずに野放しにしている事の方がよほど恥ずかしく罪深いことなのに。蛇の口に惑わされず友の善意を疑わない自分は高潔な存在であるし同志撃ちをしない自分には罪がないとでも思っているのだろうか。はやく潰れればいいと思う。

家の玄関のドアの左右に水の入ったペットボトルが律儀に捨てられていたことがあったけどあの人の可能性もある。歩いて3分の近所なので。バレそうになったら有馬君に届け物があったからとか言えば良いし、被害者が勘づいてそんなことを訴えれば「有馬君がそんな馬鹿げたことを言い始めて、とうとう無職で頭の方がおかしくなり始めたのかな」となる。マトモに取り合ってくれないに決まっているような、本人が言い出しにくいほどに馬鹿げたことをあえてするのである。人の悪口を言ったらいけないという教えがあるので尚更容易にターゲットを苦しめる事が出来る。非常に長い時間をかけて病気に仕立て上げる。モラハラやガスライティングは良心さえ欠落していれば誰にでも出来ること。と書いている自分には譫妄はないようだ。2010年前後に通った鶴舞メンタルクリニックの院長には「知能測定や簡易測定の結果を見る限りアスペルガーや統合失調症等である可能性はほぼ0%」と言われ、昨年も知立のメンタルクリニックにて診察を受けたけど「鬱病等の精神障害は見受けられない」との診断だった。ちなみに知能指数は高いです。
夏のキャンプでは昼食中、例年のごとく強引に席に割り込んできて高圧的に話してきた。「弟さんにはよく会うよ (同志会を辞めようとしても無駄なのだよ)。」「甥っ子の名前はなんだっけ (と聞いて記憶する振る舞い。名前さえ知っていれば支配できる)」。陰険を極めた容貌。と思ったら今度は灯篭作業中 わ ざ わ ざ 現場に来て急に上機嫌でチャーミングな振る舞いで「有馬くーん、よかったねー!、優秀な生徒たちに手伝ってもらえて!」 (相手を揺さぶり愉悦感を得ている。本能でやっている)。毎回です。誰も管理していないからやりたい放題。次回の大祭の音響でもなにかしら妨害を加えてくるでしょう。そして自分が一畑山薬師寺やめたら次はI様の次男が標的になるでしょう(天気予報)。
レリハラを忘れたい人は、レリハラについて考える必要がある。「人間は、何かを考えないように努力すればするほど、却ってその事が頭から離れなくなる。考えないという目標達成のためには考える必要がある」(ダニエルウェグナー『皮肉過程理論』・・・通称シロクマ実験)。
あと、怒りは悪いこととされるが、「怒り続ける経験」は心の奥底にあり見えないものを顕在化させるために、利用価値があるっぽい。人間はどうしても死への恐れとか、社会的にいい子であり続けるために怒りや怨恨を、無意識のうちに潜在化させている(インナーチャイルドの働き)。…なぜ恐れるのか、怒るのか。意識の上にあるものなら説明できる。でも『懺悔文』には「私が昔からなしてきた様々な悪しき行いは、すべて始まりもない太古からの貪りと怒りと愚かさを原因として、身体と言葉と心によってなされたものである。」(法楽寺の現代語訳)と書いてある。怒りの実体は、本当はそんなにわかりやすいものでもないようだ。『修証義』には「生を明らめ、死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」と書かれてる。それってそんな仰々しいテーマなのか?と、お経を読んではじめは思うかもしれない。しかし、死ぬまで自分の怒りの本当の理由がわからない(明らめられない)人がほとんどらしい(まして生死なんて)。甥っ子を見ていても思う。本人の記憶のないうちに、怒りを大人に理解されず、昇華されずに押し込められている。自分も同様に、記憶のないうちに人格は形成されていたのだろう。仏教には「脚下照顧」という言葉がある。他人のことをとやかく言う前に自分の足下を見よ。 ― なぜ、私はそれを怒るのか ― 自分にはわかる日がくるのかな。。








右がコメット浅葱、左がキャリコ
冬になると池表面が凍る



黄色いコメットもいる




つまんない



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