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レリハラ=Religious harassment; レリジャスハラスメント。モラハラ(moral harassment; モラルハラスメント)の宗教団体バージョン。日本語で簡単に言うなら「宗教的いじめ」という意味。
ハラスメント=広義には「人権侵害」を意味し、性別や年齢、職業、宗教、社会的出自、人種、民族、国籍、身体的特徴、セクシュアリティなどの属性、あるいは広く人格に関する言動などによって、相手に不快感や不利益を与え、その尊厳を傷つけることを言います。harass=(しつこく)悩ます,困らせる。 |
自分の通っているお寺は臨済宗妙心寺派の伝統仏教。地元では有名な大きい仏閣。そこの本堂は良いパワーがある感じで霊格も高い。だからこそ、統一教会とか創価学会その他新興宗教よりも異常なレリハラ体験ができた。なぜなら、それら新興宗教とか自己啓発セミナーとか霊能者グループはどこもかしこも霊気がおかしいが、その分信者は馬鹿になってるから。どうみても犯罪になることをし、誰が見ても倫理的にズレてる発言をする。霊性がおかしい分20年もすれば精神科へアデューなのでどうでもよい。でも伝統的な神社仏閣で大きいところは基本的には清くてパワーがある。神仏の度量は深くて、どんな人格をしていても「日本人だから」とか「御子であることには変わりない」という。ということはモラハラ加害者はどんなことをしても奉仕をすれば罪は晴らされプラーナは整えられいつまでも健康で笑いが止まらずにハラスメントができるということ。そして頭が良いままなのでモラハラ・レリハラの段取りや手口は、それが生業となればどんどん深まる。被害者は延々と魂を蝕まれるので他の人の数倍はお経を唱えたり祝詞を唱えたり筋トレをしたり歩いたりヨガやストレッチをしたり参拝時間を長くしなくてはならなくなる。時間を一番大切にしている人であっても。悪代官様は信用が厚いので被害者は耐えるしかない。病気になっても。…それがあなたには可能か?無理だというのなら読んで満足して下さい。自分より悲惨な人がいるんだなと思うと楽になるでしょ。いやいや私なんてもっと酷いですからという方はメールを下さい。合理化したり理解できない方はとりま10回読んでみてください。今世では年齢や立場的に無理な場合は来世では内向型HSPに産まれてモラハラの被害者としてその定めを全うして下さい。宗教団体や信者にとっては都合が悪い場合、レリハラの被害に遭うものが愚痴を垂れようものなら『頭に曇りがかかっているように見える』とか『先祖の因縁があって』等々豊富なプレテクストで説明をつけられる。しかし自分の宗教を肯定するためにレリハラを正当化する人は来世では病気になったのちそういう虐め体質のところに誘導されレリハラの不条理を体験する事になるのが因果応報の順当な流れ。万物は流転する。「あくどい人とのご縁は自身を成長させる」というお釈迦様の教えがあるので、そのダークトライアドという心理学的には「最も悪い・最も危険」と定義される人格者との邂逅は、自身の人格を最大限に成長させるはず。ありがたいことだと思う。 |
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2015年9月29日
身辺の調査がやめられない人(近所のA様宅)が国勢調査の調査員をしている。提出された封筒を開封することが出来る。他人の事にすごく興味があるから、表向き真摯な態度で世話を焼き、真摯に封筒の中身を確認する。ちゃんと記入もれはないね、と。目に入ってきたから見ちゃったけど、○○○○なんだって。見ようとしたわけではないよ(笑)。その次に噂を広める。なぜか受け取った国勢調査の調査票に、郵送用の封筒が入ってない。東京に送られてしまってはいけないから、あとで集荷に来る事になっている。弟の家(隣近所)が特にタゲられ(狙われ)ている。「直接お会いしたい」というのだろうが、彼の本当の動機は「モラハラ 幼児性」で検索すると出てくる。
2015年10月
文化祭の手伝いのときI様に聞いたところ、いきなり連絡不通になったO君は「コーラスに入部させられて悩んでいた」とのこと。自分も無理矢理に入れさせられた。モラハラ悪代官様のA様が「有馬君のために作ったんだから」と言って絶対に断わったらいけない顔つきをしていたのが今でも気になる。今思うとモラハラの一環だったのだろう(モラハラ=簡単に言うと精神的ないじめ)。僕は人前に立つのが苦手だから、みんなの前で歌わせたかったのだろう。そういうのを見るのが面白くて仕方ないのはわかるが(海岸のゴミ拾いの奉仕の夜の宴会の時も、いきなり僕はトップバッターでカラオケを歌わされた。事前に聞いていない。無理矢理にカラオケを歌わせる事はパワハラになるらしい。実際、上層部のH様はこちらを見てほくそ笑んでいた。でも立場が反対なら自分もやっているだろう。パワハラの目つきを味わうことが出来たからよい)。太田君はイベントの奉仕が苦痛に思っていたように感じたけど、いろいろあったのだなと思う。太田君は「(僕は)
いきなりいなくなるからね」と前もって僕に言っていた。断り切れない性格の人は、最終手段として『連絡不通』になる。お寺を離れたのはその人に何かがあったわけではない。みんなそう噂をする。そうしたほうが想像力をかきたてられるんだろう。現実は、ぷっつんして連絡不通になる。
今日I様の口から出て来たけれど、モラハラのA様と二人で決めた同志会イベントの各責任者・副責任者の役割分担で、いずれ僕の弟もその名簿に入ることになっているようだった。は?僕の弟の夫婦がお隣のA様宅に結婚の挨拶巡りをしただけで、既にそういう前提になっている。異常な事だと思う。警察に届け出た方が良いのかもしれない。I様には「絶対無理」と断った。弟の事とか「身辺の調査ばかり受ける」と言った。それはA様に伝えられている事と思う。これで身の上になにか不幸が起きたとき、「宗教の教えに従わなかったから」と成すことができる。
A様夫人の界隈を横切る時、「知らないって事が一番危ないのよ!」という言葉が耳に届いた。その言葉だけが耳に届いた。その会話に果たして脈絡があるのか知らないが、びっくりしたような仰々しい声だった。
特に弟の奥さんはいい人で優しくて、台湾人だから日本語は舌足らずで、モラハラの人間が見たらすぐにタゲりたくなる衝動に駆られそうな相手である。根回しをするために毎日身辺を覗っている。「最近弟の奥さんがみえないよ」とよく笑い話で話しかけてくる。弟にこの前「奥さんどうしたの?」と話しかけたみたいだ。有馬の弟は頭の方が遅れてるからたやすい。こんな身近なターゲットを逃す手はない。
恐怖とかバーナム効果で誘導するその本質にあるものはなにか。神仏の想いではない。相手の幸福を望んでいるわけではない。宗教に従わない者をバッシングする精神形成に基づいている。「知らないって事が一番危ないのよ!」という言葉は、自分たちの宗教を知れ!ということ。さもなくば地獄に落としたい、罪を着せたいという糾弾衝動。信じる者は救われる、信じなかった者は地獄に落とされる。神仏の教えに従わないから不幸になったのよ!。
後記:2015年12月27日、弟が「全身がしびれる」との事で病院に行った。何事もなかったけど。そういう不思議な事が多い。あとシロアリが湧いて駆除したのに、再び湧いてくる。シロアリ駆除業者の何年間かの保証期間内に。
「いつか自分のためになっていた事に気づく」「今は目には見えないけど」
こういった循環論法は、やる側は快感でも、そのメビウスの輪に取り込まれる方は苦痛で仕方ない。お金はいずれ入ってくるのだとしたら、信者もいずれ入ってくるとは考えられないのかな。
循環論法=「A(キリストは神の子である)だから、B(その神の子であるキリストは神の御心をお証しになった)であり、BだからC(よって神は存在する)である」
といった具合に延々と循環する論法。AにもBにもCにも根拠がない。論点先取の構造。反証があれば反証の体系の中で循環し、それ以外の可能性を見いださない別の構造構造に陥る。
青年会OBのS様のお話によると「お寺から離れる人は、願望が叶わなかった時の心の持ちように原因があるのではないか」との事。お寺を離れる原因を限定している。太田君がそれを聞いたら何を思うだろう。講師様のお話がトートロジー形式に陥った時、新しく来ている人の顔を見ると窮屈な顔つきをしている。今までに10人以上観察したけど、一人も目をキラキラさせて聞いている人がいなかった。S様は爽やかな人だしそういう人ばかりだけど。目をキラキラさせて拍手を送っているのはモラハラのお代官様のみだった。他人が苦痛がっているのを増長させたいんだろう。
「お寺に来るのは、なにかしらの願いがあるからである」⇒「叶うからお寺にリピートして来るのである。」⇒「願い事が叶うから仏様は存在する」。それに加えて、「しかし願い事は叶わなかった」⇒「だから仏様は存在しない」とするのならパラレルで公平な論理展開になる。
そこを ⇒「願い事が叶わないからお寺に来なくなった」⇒「お寺に来なくなるのはその人の仏の信じ方・信仰の持ち方にどこかしら問題があるからである」と為すのなら(それにたいしてパラレルで公平な論理を更に設けない限り)一方的な論理になる。その上、「だから仏様は存在しない」を回避するために「本命の所に進めなくても仏様から見たら今いる場所が理想の場所かもしれない」「幸せになるか不幸になるかは心の持ちようによる」と続けられる。その一方的な展開は諸刃で、仏様の肯定側にとっては心地よいが、信者ではない人にとっては苦痛になる。それを席を立って大きな拍手で迎えるから、一層人が離れる。身に危機感を覚える。3回も参加すれば、信者でもないのによく耐えたなと思う。こちら側にどう思うかの選択権がない。意志を持つことが許されていない。
2010年頃、不眠症だとA様に言うと「それならご祈祷を受けたらいいよ」そう言われてご祈祷用紙に名前を書かせられたが、支配しやすい相手は既に言いなりになっているという関係性が彼の脳内で出来上がっているのだろう。
普通の人:そういう事には触れたらいけないのかな。と模索する。
企み事のある人:そういう事に触れたらいけない事を模索する。弱みを握り、相手の上に立って支配する。
普通の人:相手が少しでもよくなったらいいなと思ってご祈祷を勧める。
企み事のある人:相手がどうなろうと関係ないが、病気ならご祈祷を勧めるもっともな理由になるから勧める。自分の最大の徳積になる。
普通の人:人によいものを勧めたい。よい宗教に縁を結ばせたい。
企み事のある人:相手を支配しながら自分の宗教に取り込む。
「それならご祈祷を受けたらいいよ」。その時の違和感が忘れられない。
『お前は可笑しいからそうなるのであって、ご祈祷を受けるべきなんだよ』。もちろんご祈祷を受けても不眠症が治るなんて思っていない(そんな事は別にどうでもいい)(不眠症を治すなら、それ以前に「原因」を治さなくてはならない。原因がカフェインとかアルコールなら簡単だが、中日新聞によるとLGBTの90%以上は不眠症)。ご祈祷を受けてもその日しか眠れない。毎日受けなくてはならない。だから一層、都合が良い(そういう計算が働く)。見えていないうちはよい。まだ何も知らずに支配されているうちはよい。
2014年1月 ハッピーかい
こちらが嫌がることをしてくる。常にそういう機転で行動をする。事前に打ち合わせもなく、3班の班長が変わったことを朝の説明の時間にみんなの前で話し出し、いきなり僕にマイクを渡してきた。その時の行動に違和感があった。門弟S様はA様が僕にマイクを渡す時、え、あの?という反応をしていた。マイクの苦手な有馬君のためを思ってそうしてみえる。家でその段取りを用意してきていることが見え透いていて、善意に受け止める事はなかなか難しいが。
派遣の仕事が数ヶ月続いたので、A様に「有馬君のわりには仕事が長く続いたほうだね」と上から余裕の笑顔で言われた。そういう事は冗談めかして言えば良いようだ。夫婦でそのようなことばかりを語られている。宗教の信者は人の噂話に熱烈だ。間主観性で結託した強固な像が出来あがっている。
勉強会にて、班長は写経の紙を配らないといけないようだった。A様は「不浄如来様の写経…不浄如来様の写経…」と小声で念じてきた。A様は先月、まだぜんぜん書く暇がなく書き終えていないはずだった。家で写経は書きあげてきたようだ。だから新しい写経の紙が必要なのだった。自分で取りに行くではなく、有馬がいつ自分のところに持ってくるかを覗っていた。A様の座ってる席のすぐとなり(80cm程度の距離)に写経の箱は置いてあるのに「不浄如来様の写経は…不浄如来様の写経は…」と小声で念じる。
2015年8月31日
まゆさんは、一人でも職場に変な人がいると続かなくなるようだ。彼女は変なことをされても「自分が悪いからこういう目に遭わされる」という発想に至る「自罰型」。そういう人はすぐにタゲにされる。
モラルハラスメントは隠蔽する事が前提にある。非常に高度な仕組みで、普段からそういうことしか頭にない人にしか出来ない。僕はA様に今日もなにか言われた。「○○が出来ない『おぼっちゃま』も多いよ」。こちらに向かって強調してくる。イントネーションが違う。
今日のハッピーかいの講師様は門弟のお母様だった。現実はどうであれ原因をすべてお寺の教えの中に帰結している内容だった。転んで足を怪我したら「不浄如来様にご無礼があったから」としていた。自分はお薬師様にそう言われた事があるらしい。よいお話だけど、話の構造は循環論法で論点先取だった。不浄如来様へのご無礼が絶対項になる。純粋な人は先に病気をして死にかけるが、原因が「魔だったら」なんて考えない。その思考構造は魔にとっては都合が良い。A様は席を立ち、拍手でブラボーしていた。
2015年6月28日 ハッピーかい
「有馬くん、そういえば最近弟の嫁さんの顔を見ないけど」と言われた(弟夫婦はA様宅の隣に住んでいる)。「挨拶に行かないといけないってことですか?」と聞いたら「いえいえ、この前のお礼をしたいんだけど」という返しがきた。ご近所付き合いをしたくてウズウズしている。その目的は健全な類いのものではない。弟夫婦はおっとりしていて人を信用しやすい風に見えるから(そういう人格も気に障るらしい)、自分の力でお寺に来させる事が可能だと思っているのだろう。でも弟夫婦は隣近所づきあいどころではない。二度か三度会っただけの歳の離れた老人のことは全く気にかけていない。それは、ごく普通の事である。でもA様は人が乗っている車とかご職業や家族構成や悩み事など、身辺の調査には万遍無いので温度差がある。
今日は山道の竹を処理していた。僕が竹を下の方にむけて投げる行為に目を付けられていたのか、A様は誰かと話している時に「竹を投げるとか信じられないんだけど、それでも当たらないってのはお薬師様のお陰だよね」と言っていた。竹は誰にも当たらない。そういう投げ方しかしていない。
A様にルルドの泉の旅行の勧誘をされた時、僕がお金を理由に断ると予測していて、案の定、僕がお金を理由に断ったら「だったら僕がお母さんに頼みこんであげようか?」と間髪入れずに言ってきた。いかにも有馬のお母さんも丸め込める事が出来るかのよう。社交辞令で断ると予想できるから揚げ足を取られる。そのあと「バックパッカーならその金額で1ヶ月行けるから」とA様夫人に話したら、それは勧誘を断る口実なのに、後日、行くって言ったのだから「行かなきゃ駄目だよ」と念を押された。誘いを断ると根にもたれる。断った理由を二人で共有している。以前、勉強会の講師様のお話について中島君(常に人を笑わそうとしている人)が、「人を呪えば穴2つの穴ってどこにあるんですか?」と突っ込みを入れた時、A様は「それは『比喩』なんですよ」と諭していた(では西方浄土は比喩でもいいのか?)。都合の良い時だけは比喩になり、相手の社交辞令は逆手に取る。中島君は怪訝な顔つきになっていた。そんなことはわかっていると。でもA様も中島君が比喩をわかっている事は実はわかっている。中島君はお笑い系で頭が良いし、都合の悪い方にもっていかれたくないから、強引にそういう事(中島君は比喩を理解出来ないアスペルガーのように論っている事)にしている。
2014年5月26日 ハッピーかい
のこぎりで木を切るのがうまいと井並様に言われたらそれを聞いていたA様は「ううん。」とすぐさま横から否定してきた。「有馬君はお殿様だから」。有馬は完全に白痴である、と常日頃から念じられている。
勉強会は同じ班で地獄である。班の話し合いが始まる時にはじーっと5秒ぐらいこちらを意味深に眺めてきた。「なに?」と言ってみたら何も答えず話に入った。そのように意味深な態度が多い。自分はわかっているのだよ、と。
「結婚をしないと人は成長できない」らしい。地主坤神様のほどよくやわらかい土壌があって木が伸びるように奥さんの土壌で旦那は育つ。では結婚していない人は…となると人間的に成長していない存在である。A様は「君は結婚をしていないし仕事もしていないから人間的に未熟なんだよ」と念じてくる。独身は彼らの自尊心を満たす存在である。
2014 節分
日曜はお寺の節分豆まきの手伝いに行った。一日中鬼役やった。夕方、掃除を終えて椅子に座っていると、いつの間にか来ていたモラハラは隣でだれかと話をしていた。すると話に脈絡があるのだろうか「だれかさんは」という言葉が聞こえてきた。昨年か一昨年は「あ がつく人」と言っているのが聞こえてきた。皆も片付けが終わり、椅子で待っていると、係の新参の門弟さんが登場し、お開きの言葉をいただいた。その門弟さんが皆の前で話されるのは初めてなのか皆もその姿を注視していた。しっかりと合掌低頭をしてみえるけど言葉が全然出てこない感じだった。その間モラハラの方は、その新参を虐げたい衝動に駆られていた。終了後即座に「いい声でお経をあげますね!」と大きな声でモラハラらしく彼のことを褒めた。手に取るようにわかる。衝動を抑えるためにも、やさしい言葉を投げかける。いかにも弱そうな相手を見ると支配衝動が出てきて仕方ない。新参で不安な人は優しい言葉を投げかけてくる人を魔だと見抜けないだろう。
モラハラの異様な言動について指摘しようものならこちらの見え方や被害妄想にされる。一般的・集合的な意識から逸脱したことを言えば「机上論じゃダメなのよっ」。自分のコードで理解できない事にたいして拒絶がある。無宗教者の蜂に刺された事でもあるのだろうか。それに、信者のおばさんはすぐに「経験こそが大事ナノヨ」とか決めポーズする。
2014年
秋の文化祭でカメラマンをするので一眼レフを持って行った。A様はそういう所有物を見かけると必ず接近してくる。そのカメラの価格を言えば「思ったより安いね」。反省会のあと、A様が「有馬君の一眼レフを見たい」と言ってきた。自分の「¥8800の安物のデジカメ」を引き合いに相手の一眼を褒めちぎる風に接近してきて、僕の一眼の駄目出ししていた。みんながそのカメラすごいカメラだねと寄り始めると、A様は「世界で一番安い一眼レフカメラ!」と讃えていた。小栗様は「そんな事ないわよねぇ」とフォローしていた。
文化祭で撮影した写真を見せると「ちょっと画像が暗いね」。それは人物が露出オーバーになるから(屋内にて背景が真っ黒だから)露出アンダーにして撮影してあるもの。「露出を落としてある」と言っても右から左。「やっぱりこれを使うには腕がいるね」と僕の腕をぽんぽんと叩く。カメラの腕がない事を揺るぎのない前提にされる。
2013年11月3日
今日もまた陰険な指摘を受けた。文化祭のカメラマンで出演者の斜め後方から撮影していたら音響をしていたA様に因縁つけられて、○○様から「正面から撮影するように」と言伝てされた。でしゃばった事をするなと。そうクレームがついたよと。そしてまた正面から撮影していたら知立の神谷様に「カメラマンならいろんなアングルから撮ったほうがいいんじゃない?」と言われた。「そう思って後ろから撮影したら文句言われた」と言ったら神谷様は三脚を用意してくれた。「アングルが変わると楽しいから」と。
別にでしゃばった真似をするためにカメラマン気取りで斜め後方から撮影したわけではない。観客の集まり具合も撮影しておこうと思ったから撮った。斜め後方から撮影してもカメラマンは隠れているから目立ちはしないし誰の迷惑にもならない。何の問題もないはず。それをすぐさま難癖をつけたがるのは何故か。他人の本格的な振る舞いが気に入らないのは何故だろう。
自分の神道の先生はいろいろと質問すると「大いに哲学をしてください」と勧めてきた。哲学なんて普通はさせたがらない。知識を持ったりスノッブになるとイラつくから。相手の成長を本当に求めてるなら、自分が追い抜かれることを省みないはずだが、愛情がないとそれを拒む。人が意思を持っていることが気に入らないのは、自分の我や自尊心が、人にたいする愛情よりも強いからだろう。
僕がお寺に来た理由がA様の力によるものと思われていた時、指導者として上から助言をしたり笑いを含ませながらこき下ろしてきたりした。A様は僕をお寺に紹介し仏縁を結んだ人として感謝を求めているのか「少年部のキャンプは有馬君は平成何年に来たっけ?」と訊いてくる。そこにこだわる。でも僕はそんな人間を勝手に指導者と成されたくないので、女性の信者様に「有馬君はA様つながりで来てるんですよね」と聞かれた時、「A様は関係ないですよ」と答えた。その方は誰のご縁なのか不思議がっていたから「自分の力で来た」と答えた。本当のことは言えないから。しかし一言でも「自分の力で来た」なんて言ったらいけない。A様宅の修養会で謙信禅師様がすごい縁であんな人と結婚できたお話をした。その後「お寺は自分の力じゃなく先祖の徳積があって来ている」という話になった。気のせいでしょうかね。
本当は、愛知に戻る際に神道の先生に「薬師寺の開祖の方がお迎えにきてみえる」「なにかお寺で勉強会みたいなのを開いているから、有馬君もそれに参加するといいよ」という旨を伝えられたから一畑山に来る事になった。多分2014年に10回ぐらい入泉しに来ていたことが契機になっていると思う。友達とも行っているし。でも一畑に通っていて余所に指導者みたいな人がいるといけないだろうし、「魔」とか「霊能者」とか「おやまの大将」を仰いでる等とレッテルを貼られるから言ったらいけないと思った。尊敬している人を「魔」とか「いるよねそういう人」にされるのがオチだ。それに本当に神道の先生が神様におうかがいを立てているのだとしたら、仏に泥を塗ることと同じ大きさの罪になる。
ハッピーかいでノコギリで木を切っている時、井並様に「有馬君上手に切るわねぇ」と褒められた。咄嗟にモラハラのA様は「有馬君の 『ノ コ ギ リ』 すごくよく切れるねぇ」と褒めてきた。ノコギリ関係でもその様な事を何度も言われているので、「ノコギリの力なのか?」と言い返したら (普段は我慢しているが)、井並様が「有馬君の力よね」とフォローしてくれたが、A様にはかなり悪心を持たれていて、近くで僕が作業していると
わざとらしい会話が聞こえてくる。「枝が『宙ぶらりん』になっちゃう」らしい。聞こえる風に言ってくる。僕が中央大学出身だからか「名古屋大学!」のコンサートに○○さんは行っているらしい。妙に耳に残る。脈絡があるのか知らないが「もう孫の顔は見れないよ!」。独身だから差別を受ける。上前津には「高層マンション!」がたくさん出来ているらしい。その辺りの人は資産が有り余っているようだ。有馬の家とは比較にならないくらいにね。30年前には「名古屋のお庫裏様と一緒に!」なにかをしていたようだ。当時からお庫裏様には認められているとか、このお寺の発展の歴史には自分がいるという事だろうか。「名古屋のお庫裏様と一緒に!」だけがやたら大きな声でよく聞こえてきた。会話の相手に感情を込めた相づちをしているが心は打算ばかりで上の空に見える。その間、20分程度。3分に1回当てこすりをされた。そのあとY.S様に「あの子は自分の力を過信していた。ぜんぜん駄目だよ」と告げていた。自分の力を誇っているという事で不自讃毀他戒に抵触するのだろうか。お寺の信者様の多くは他人の自尊心・虚栄心をドラスティックに忌み嫌う。それがわかってる。そこにもっていけば良い。怒りをためているとその風情から、自分に自信があって天狗になっているともっていかれる。A様宅の修養会で謙信禅師様は「お薬師様が言うには『人は産まれながらにして仏心を持っている』。それが歳をとる毎に雑念で草がぼうぼう生えてくる。自分はこんなに能力があるのだとか思いあがっているうちに見えなくなる。」と話された。A様にどう伝え聞かされているんでしょうか。
2015年11月
職場のおばさんに「こんな有馬君みたいな繊細で悪い事のできない子を利用する人なんていないでしょ」と言われたので、「お寺の信者にそういう人がいる」と言った。「モラルハラスメントとか…」と、言ったら笑っていた。その人に心配されるといけないので、その後「いつかはやり返すからいい」と言ったら、「相手のほうが上手(うわて)だったらどうするの?」と言われた。
2015年5月24日
美合駅で尾関様に「有馬君今お仕事してるの?」と心配そうに聞かれた。なぜ僕が無職だという事を知っているのだろう。A様にしか言っていないのに。それに既に働き始めて1年半経過している。無職だという事はみんなが何故か知っている。既に働いていることは知らない。
A様宅の隣に住んでいる僕の弟が結婚をし、3月にA様宅に挨拶に見えたようだが、4月頃弟は湿疹とかじんましんが大量に出ていた。親戚達に仕事のストレスか?と言われていた。僕はどうせA様の因縁だろうと思った。ハッピーかいの昼食中、遠くから隙間を縫ってこちらを観察していた。気づかないふりをしていたけど、その目つきは人格のおかしい人の目つきだった。
その後大吉の6連続が崩れたのが気になる。
2015年11月
尾関様に聞くところ、インターネットで「おんころころせんだりまとうぎそわか」の意味を解説している人がいて合同会議で問題になったようだ。でも、みんなの中でいつの間にか『若い人』が書いているとされている。そこが引っかかった。なぜ『若い人』だとわかるのか。Profile欄を確認したのだろうか?みんなから見て若い人なのか?
もしその会議に僕が出席していたら、A様に肘を突かれただろう。そういう風にもってかれる。
家に帰ってググって解説してる人10件ぐらいプロフ確認したけど「若い人」が見当たらない。無意識のうちに皆そうもっていかれている。
しかし「おんころころせんだりまとうぎそわか」の意味を解説するなんて、世の中にはキショい奴がいるな。これは使えると思ったのだろう。「あの人が書いているのでは?」とみんなに連想させる。インプリンティング(刷り込み)は疑えないし、あとで「それは印象操作だったみたいですよ」と指摘されても人間は誤った情報をうまく修正できないらしい。それどころかその情報の正当化をはじめるらしい。自分も心当たりがあるので気を付けないといけない。
2015年12月20日
いろんな話に関してよく「自分の体験に基づいた話でよかった」と言われるけど、それが理系差別に聞こえるときがある。反省会で、ある方は講師のK様のお話について「宇宙の話になったときにはどうしようかと思ったけど」等と笑ってこき下ろしていたが、宇宙の話して何がいけないのか。仮想で語ったらいけないのだろうか。天文学部はどうなるんだろう。
自分の体験に基づかないものを語る人間をこき下ろす事が常態化すると、音楽や物理や数学や文学の才能がスポイルされることになる。それは罪にはならないのか。 |
レリハラを忘れたい人は、レリハラについて考える必要がある。「人間は、何かを考えないように努力すればするほど、却ってその事が頭から離れなくなる。考えないという目標達成のためには考える必要がある」(ダニエルウェグナー『皮肉過程理論』・・・通称シロクマ実験)。
あと、怒りは悪いこととされるが、「怒り続ける経験」は心の奥底にあり見えないものを顕在化させるために、利用価値があるっぽい。人間はどうしても死への恐れとか、社会的にいい子であり続けるために怒りや怨恨を、無意識のうちに潜在化させている(インナーチャイルドの働き)。…なぜ恐れるのか、怒るのか。意識の上にあるものなら説明できる。でも『懺悔文』には「私が昔からなしてきた様々な悪しき行いは、すべて始まりもない太古からの貪りと怒りと愚かさを原因として、身体と言葉と心によってなされたものである。」(法楽寺の現代語訳)と書いてある。怒りの実体は、本当はそんなにわかりやすいものでもないようだ。『修証義』には「生を明らめ、死を明らむるは、仏家一大事の因縁なり」と書かれてる。それってそんな仰々しいテーマなのか?と、お経を読んではじめは思うかもしれない。しかし、死ぬまで自分の怒りの本当の理由がわからない(明らめられない)人がほとんどらしい(まして生死なんて)。甥っ子を見ていても思う。本人の記憶のないうちに、怒りを大人に理解されず、昇華されずに押し込められている。自分も同様に、記憶のないうちに人格は形成されていたのだろう。仏教には「脚下照顧」という言葉がある。他人のことをとやかく言う前に自分の足下を見よ。 ―
なぜ、私はそれを怒るのか ― 自分にはわかる日がくるのかな。。 |
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