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2022年のお神籤






猿田彦三河神社
末吉


二人で飲んだコーヒーのほろ苦い恋!! 
寂しくなって別れたけれど 胸の中の熱い思いが忘れられなくて ほんとにやるせないけれど 今は思い切って新しい人を求めなさい。



まさにだった。

名張で出会ったあの人は理想的だった。というか好きになると、その人に向けて理想が補正されてゆく。その人が理想になる。

だったら、新しい人を好きになれば、その人はあの人を超えるのかもしれない。

でもそんな人とは生きている間に遇えるのだろうか…。
名張という昔ながらの日本の残された清浄な大地に育まれたあの人は、いつも一人でスマホいじってて無口だし、メガネをしていて頭が良いし(統計上そうらしい)、乗ってる車はダイハツだし(周辺ルート思考の正反対)、仕事はしっかりとしているし、頭の中でやっているし、太ってるし、歩き方がのっそのそだし、最短ルートで移動するし、時間ギリギリに出勤するし(時間の無駄を嫌う)、童顔だし(澤野さん曰く「男だけどかわいい顔してる」とのことだった)、ラジオ体操の動作がぽんぽんしてるし、すぐに赤面になるし(心理学的には器が大きくて信用できる人の特徴らしい)、表情が多種多様でたまに複雑な目つきをしているし、etc..
毛深かったけれどそれもよく思えた。体臭あったけれどそれもよく思えたはず。
僕ははじめ名前が出てこなかった。「あの人」になったり別の人の名前が出てきたりしてげんなりした。僕は人の名前が覚えられないからと思っていたけれど、心理学では「本当に好きな人の名前は出てこないもの」と言われてる。

そんな人を超える者があるとすれば、それは女だろう。

女性が相手なら差別を受けずに済むし自分の不幸を望んでいる人に見下されず公然と町中を歩くことができる。それが世間の人の普通。ほんとみんな修行してないですね。人とのコミュニケーションも普通にとれるようになる(「性」はそれほど根深いものですよ)。なんて易道だろうか。抱くこともできるし、今更子供はつくれないけれど生活が楽になるし、人としての喜びを享受できる。人が知らない重要なことを享受しているからどっこいどっこいですけどね。

しかし御岳山の師匠が言うには→「苦しみのない行はない」。苦しむ羽目になる人は喜びましょう、神様仏様からみて見込みがあるからそうなる。となる。
自分はこの先も差別を受けて、生涯呪われた境遇で生き続けることだろう。穢多非人やカースト最下層の人たちのように、苦しむこと自体は霊性の向上につながる。ダークトライアドに苦しみを与えても他人に迷惑をかけるだけだから、ダークトライアドには神仏に向かって成長する人を苦しめる役割を与えられる。

報われない人生を送る女性を愛せば、それは徳積みになるかもしれない。その人を幸せに出来れば。でも神様仏様としては、僕には生前に設定したもっと別の目的がありそうだ。だから普通に女性を好きになったことは数人しかない。子供を生み出せないかわりに、なにかを生み出すことになっているのだろうか。
そもそもだいたい今更そんな「易道」に落ちては、「だったらはじめから女性を好きになってればよかった」となる。はじめから女性が好きならば、親子面談で言われたとおり塾には通わせず学校の勉強だけしてれば東大行ける知能だからそのままストレートに東大行って彼女作って好きなことやって県庁や一部上場のホワイト中のホワイト企業に入社して結婚して今頃子供が2~3人いる。はじめからそんなみんなのような易道を送っている。ここまで不遇な人生で苦労をして怒りを溜めて生きてきて不眠症に陥って自分よりも知能指数や霊格の低い者にマウントされて、声だけ不必要にでかい人物に下に見られて、フレネミーに目をつけられて、パーソナリティ障害の人にモラハラされてきて、今更目的を転換させても、この半生が無駄になる。せっかく桧原神社のような究極に霊格の高い神社でも感応するようになったのに。
魂は苦しむことを求めている。成長するから。でも精神と肉体は苦しみたくはない。それが魂とのギャップ。でも苦しみぬいた後、肉体にも精神にも開放感がある。ストレッチのあとのように。自分の場合、解放は死んだあとにしか訪れないが、この宿命からは逃げない(=女性を好きにはならない)ようにしよう。




富山と名張は空気がきれいで天国過ぎた。名張で履いていた靴を履くと、名張のことを思い出す。外敵がいなければ「ありのままの自分」でいられた。でもだんだんと忘れてきてしまった。あんなにピュアでいられたのに。悟ったことはたくさんある。「妄想と現実は違う」ということの延長線上で、「ありのままの自分でいることができないと人は優越追及行動に走る」ということがわかった。甥っ子がよく「誰々よりも自分の方が〇〇」と比較する。怖いときに怖いと言わない。それは「ありのままの自分」「生まれたるままの自分」では赦されない周りの接し方が原因。多くの人はそうだろう。大人になってもその状況は変わらない。隠蔽するようになる。恥を乗り越えて「ありのままの自分」であることができれば人は神様を信仰する。それが素直な人間の姿。美しいものをアプローズする。本当は美しいものを美しいと言いたい。魂はインナーチャイルドを癒して乗り越えたい。でも劣った者とか変な人とか弱い人と思われることを忌避し、そんなことは一切しない。「ありのままの自分」なんてそもそも言わない。かわりにYoutubeで洞見の深い自分(そういうペルソナ)に結びつく都市伝説を閲覧したり、大学の講義の超簡単バージョンを閲覧して理解出来るから大学の学問がわかると思い込んだり(自分は優れているのだから宗教のようなことする必要はない)、スピリチュアルに走ったり(集団行動を嫌う、お金や労力を支払いたくない、みんなと異なる特別なものを信仰していたいなどの特徴がある)、自己否定の念を否定するかのように肉体を鍛えたり()、虚栄心からダイエットをしたり、友達や味方を増やしたり etc. それはとても心地よい。なぜか。優越感で埋め合わせが生じているから。何の埋め合わせになるか。表層意識にのぼってこないものを。サイコパスには魅力的な人が多い。それは「見放される恐怖」を持っているからかもしれない。人の振り見て我が振り直せだが、そう考えるとつじつまが合ってくる人が何人かいる。本当のことは見せてはならない。
その一例:石上神宮には鶏がたくさんいる。つかまえられる鶏がいて、僕が抱いていたら、弟はそれに乗じてたくさんの鶏を甥っ子と一緒に追いまわしはじめた。横柄で怖いもの知らずないつもの具合で、大きな音で踏み足をして。石上神宮は霊格が高く、境内では高い霊気が濃厚なので、魔があぶり出されやすい。それを見ていた参詣者にキレられ注意を受けた。即、「怒られちゃったー」と余裕な素振り。あとで甥っ子に「大君だけ怒られなかったね」と僕が言われているのを聞いて、息子には完璧でありたいので聞き捨てならない具合になり、しばし考え、理由をねつ造した。「それはゆうきの保護者だからだよ?」。一般的に正しいとされる回答を考え出せば内面の本質を見られなくて済む。でも魔が差していた側面を見ないと本質が見えてこない。なぜ魔が差すのかという理由を考えることもご縁だと思う。宗教の教えがないと人はそれをしない。本能の領域にあるものより、辺縁系の思考力の方が早い。瞬間的に本質は隠蔽される。鶏にたいする慈しみの心は子供の頃にはあったはず。でもそれは弱い自分なので優越性を求める思考力に素早く隠蔽される。宗教は(特に神様仏様は)無意識の領域から掘り起こして人を正しい方向に導いてくれる。せっかくあぶり出されたものを深く追及しなければ宗教の意味がない。宗教を忌避するのもご縁。餓鬼のご縁が多数あるほど自分の中の子供が優先される。
外敵がいても「ありのままの自分」でいるためには、ありのままでいるための努力や神仏のお計らいが必要そうだ。なので自分は努力をそういう方向に向けたい。死んだ後のことも想定したい。痛みや苦しみに対して前向きに捉えられるかどうかは、インナーチャイルドに基づく。自己否定が根深いにも関わらず、そのことを隠蔽して心が強くなっている人()は、筋トレで痛みを感じにくく、行において苦しみを感じにくいらしい。インナーチャイルドが出にくい。またはあぶり出されても思考力に即座に隠蔽される。体罰があった人は痛みや苦しみでインナーチャイルドが出やすい。そこで耐えられなくなり無意識の奥底に追いやってしまえば乗り越えられた気にはなる。筋トレとか加虐心から意地悪を受けたりして苦痛を感じるも、最終的に楽しめるようになるのが理想。苦痛があると訴えたくなる。僕は神社に訴えに行く。でも修行者なら誰にも文句いわないと思う。
自己否定を否定する。たとえばサイコパスは、「短期記憶を管理する傍辺縁構造の体積が平均的な脳に比べて少なく、そのために過去の出来事を自分に都合の良いように改ざんし、過大に自己評価をしている可能性がある」。想い出を大切しない人にも様々な経緯をもつ人はいると思うが、サイコパスも過去を重要視しないだろう。もし想い出を大事にしておきたいのなら、その記憶は正確でなくてはならない。写真も限りなく忠実に記録されていてほしい。でもサイコパスの場合、本当のことには無関心だ。過大な自己評価がゆるぎない反面、卑小な自己を見る段になると発狂レベルになる。普通の人は自分の恥じらいを楽しめる。サイコパスは隠蔽すれば気が済む。「さらにサイコパスの脳は前頭前皮質と腹側線条体の伝達能力が弱く、そのために自分の行動と結果を予測する力が著しく低くなっていることも明らかになっています」(Carat Woman)。因果応報に無頓着。多くの人にとって命の次に大切なものになる「想い出」を大事にしない⇒過去に執着しない…と言えば聞こえはいいが、過去を簡単に書き換えることができる⇒尊大な自己像を形成しやすいということでもある。サイコパシーの人は、まず痛みを素直に感じることから始めないと答えに辿り着けないかもしれない。







あせればあせる程苦しみ多し。騒げば騒ぐ程損が加わり災いを招く。心静かに構えて身を守るべし。禍福は糾える縄の如し。

となりの澤野さんが筒で引くおみくじが苦手らしく、住吉大社でぜんぜん筒から棒が出てこず、列が並び始めてしまっておみくじ引くの諦めたようだ。・・・だから、このおみくじが出たのではないのか?
僕が澤野さんにお手本を見せて出したおみくじ。「あせるべからず」「諦めるな」。

でも「禍福は糾える縄の如し」は心に刺さる。名張から帰ってからはしばし幸福だった。神様仏様の行をせず、自分の時間ばかり優先して自作PC組んでいた。今回はBIOSTAR Valkyrieという理想のマザーとintel Core i9 11900Kだ。だけどパソコンの電源ケーブルに互換性がないというトラップのせいで・・・。
騒げば騒ぐほど損が加わるとのこと。ジャンク品で処分した物の中に良品があった。最近末吉と凶しか出てないし、ずっと気が晴れない。









奈良の寶山寺
小吉のほうが吉より上となっている
おみくじの銘柄によりけりだけど






聖天様のシンボル
袋と棒











小吉











不退寺







半吉



















唐招提寺では土砂降りだった。


















唐招提寺の庭。

ちょうど雨上がりになって美しかった。庭に癒されることもあるのだな。霊気の作用もあったのかもしれない。でも庭を歩いていて癒された経験はない。唐招提寺の付近も素朴でいい。










名張に一旦停泊

今回は吉

今年の大吉率がどんどん落ちて45分の15…33%。
前回、「この人はしばらくは低空飛行」という内容だったけど、本当に大吉出ないな。愛知に帰るとまた修行の日々が訪れる。パソコンどころか故・池田勇(池田サウンドラボの創業者)のパワーアンプは壊れるし、PioneerのBlu-ray Disk Playerも調子悪くなったし。埋め合わせが生じているのだろうか、朝晩30分の祝詞お経をサボっているからだろうか(整える方法を知っていながらそれをしないと神様仏様からクレームがつくらしい)。








8.22
猿投神社








静岡に旅に出る。可睡斎という曹洞宗のお寺で読んだ本。








油山寺









なんとおみくじ用のお宮がある
11回ぶりに大吉が出た











静岡浅間神社 八千戈神社
境内社でこれです。久能山東照宮の付近にある神社で徳川家康公の崇敬が篤かった。








旧マッケンジー邸
心がしんみりする場所だった









智満寺










元三大師おみくじでまさかの大吉が出た。左の絵柄は元三大師(良源)が病に苦しむ姿を弟子が模写したもの。悪魔と戦う形相がすごかったようだ。無事本復し、疫病退散の象徴の絵柄になった。







知立神社









露天神社 からくりの巫女様が奥の宮から運んでくれる







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