創造について


 批評家は作品を理解することはできても創作することはできない。小林秀雄のように、批評それ自体が作品になることはあろうが、この常識自体は覆ることはない。もちろん批評と創造、どちらが上だとか下だとかいうものではない。子どもの天才肌を残している人間か社会人としての適応力を身に着けている人間かという、形態の違いでしかないが、創造性は抑圧のない世界で発揮される素性である。
 カルト宗教の信者のように、創造する習慣がなくなると、人は受け売りの言葉ばかりを発する。創造力はあってはならない事だという暗黙の了解がある。また、創造する方向性に才能の伸びていない創造者ほどなんらかの型にはまっている。世間の評価に揺らぐ自己愛性人格障害者はステレオタイプな創造性になる。


  ――人間を本質的に善良にするのは、多くの欲望をもたないこと、そして自分をあまり他人にくらべてみないこと。人間を本質的に邪悪にするのは、多くの欲望をもつこと、そしてやたらに人々の意見を気にすること。―― J.J.ルソー


 一切に我が物なし。煩悩とはそれを我が物にしようとすること。人間は成果に溺れるほどにやっかみやすく、その作品はオナニーだとか、糞とか、無意識にシモの用語を連発するようになる。恥ずかしげもなく。オナニーって・・・そういう表現を扱う自分はそれに感応しますってことを証明しているようなものだということを認識するには及んでないなってことを僕は遠まわしに気づかせるためにピエロを演じていたいね。あ…。反対に、形而上に意識の向く高級で繊細な感性を維持する人間は、から回りするものを高い軌道に乗せるには低いところの持つ周波に同調しても反面教師にしかならない。
 産業労働学の講義で習ったが松下電器に面白い研究があり、企業に成果主義を導入した結果、人件費は下がったが、労働者のやる気や協働意識は低下したらしい。こんな写真を撮影しました写真に価値は見当たらない。そういう時分には、自分の美学や想い出はどこにいってるんだろう。ということを考えたことはあるか。賞与が欲しければ賞与を求めないこと。よい写真が撮りたければよい写真を撮ろうとは思わないことなんだね。崩れた構図のほうが、神の仕業としか思えない場合がある。子供の描いた絵の展覧会は、きっと面白い事態になるだろう。


  スキューバダイビングをする人は、カメラでは無理だという。水中ハウジングで深さ40mまで下っても光が足りないとか、海の生命の流動性が生のままに撮れないとか、魚の色彩を、あるいは現物の色彩でなくともそれ相応の美しさを写真に持たせることは無理だという。雄大な自然の持つ神秘を前にして、所詮カメラなんぞでは抗いようもない。カントにより「物自体」は証明不能のものとして証明された。創造主のこの悠久無限の世界そのものへ向かおう・あるいは抗おうとする人間にこそ本当の芸術が開かれる。
 カメラを撮影する場合、ズームレンズを使うと被写体が際立って面白い写真が撮れる。それもいいが日記用の写真はマクロで撮りたい。結婚式とかマクロで撮影すると写真としてはおもしろみがないので不評だが想い出を保持する目的で撮影している人はそれで満足している。被写体を浮き上がらせる撮影、日記で想い出を保持する撮影、その両方が使い分けられてこそ一人前かもしれない。日記に重点を置くあまり広角18mmばかり使っていたらあとで旅行に同行した人が見ていておもしろくない。かといって天才とかセンスがあるとか言われたい人は形だけ優れた写真を撮る。「周囲と同じことをやれば群化されてしまうことは不可避。これに気付かぬ創作者はただ埋もれていく。」などと言う人がいるがたしかに真理である。でもモチーフ以上のものは装飾になり技術作品である。撮影には様々な技術があるが、30度回転させて撮影すると首をかしげて見なくてはならないので想い出の保存には不利である。自分が被写体を尊重しないと美質が見抜けなくなる。旅行してもカメラというおもちゃに振り回されることになる。癖とか曖昧さを必要もないのに取り入れ、奇麗なだけの作品を見下ろしては、絞搾した眼球で悦に入るとなんのための写真かという側面が次第に抜け落ちてしまう。どうしてもそれを収めたかった・あるいは描きたかったんだろうなぁなどという目に見えぬ後景がない。だから心に訴えてこない。子供の書く絵は力強い。伝わってくる振動のエネルギーが違う。自分を圧倒した何かや、「うまく表現することはできないけど」という対象の偉大さを捉えてこそ芸術作品が産まれる。写真であれ文章であれそのモチーフより下位のものであるので、作家の力量により具現化できる以上のものは、その作品に触れる人の感性により補完される。優れた・崇高なモチーフほど、補完されるまでのマージンが大きい。