睡眠は、われわれの注文通りにどうこうすることのできるものではない。それは深い水底から浮かび上がってくる盲目の魚であり、われわれの頭上から襲いかかってくる鳥である。ジャン・コクトー |
病的な同性愛と健全な同性愛 このような同性愛の病的な理解には当然、批判がありうる。自分でもゲイであったジードは『ソドムとゴモラ』を読んで憤然となる。そこに「真実に対する背反」を認めて「怒りの衝動」を覚える。『コリドン』で長々と主張されるとおり、彼の考える同性愛とはギリシア以来の伝統に立った、もともと何ら恥じるべきものを持たない男性らしさの発露なのだ。古代ギリシアでもルネサンス期のイタリアでも、「ユラニスムの栄えるのは頽廃期ではなく、かえって隆盛な健全な時代」であり、「悲劇は同性愛の外にある。(……)この幸福な恋愛のなかには、悲劇の材料はない」。彼は、ヒルシュフェルトふうの「第三の性」学説が幅をきかしてしまったことを憂えるのである。 こういった昂然たる論調の前では、プルーストの見方はいかにも弱々しい。だが神経症気質の彼としては、とてもジードのような立場を自分のものとすることができないのであった。病気というのが彼のセルフ・イメージであるから、過敏症とかアレルギーとか、もろもろの病状を自分のゲイ傾向に結びつけるのはきわめて容易なのであった。小説のなかで、若い同性愛者シャテルロー公爵が、プルーストに似て「枯葉熱」の持病を持つとされているのは興味深い。海沿いのりんごの花を見るだけで、公爵は発作に襲われるのである。 |
ロボット工学ではわが国第一人者といわれる森政弘・東大工大教授は「ロボットをやっていると、仏教のことがよくわかりますよ」という。それはたとえばこういうことだ。 ―― ロボットにどんな本能を持たせるかは設計者の自由である。”食欲”を持たせれば、ロボットに内蔵するバッテリーが上がりかけると自分で電源を探して近づき、コンセントに自分を接続して充電できるようにすればよい。また、どんな目を持たせるかも設計者の自由だ。ロボットに丸い物を識別する目を持たせれば、ロボットはこの世界は大小の円から成り立っていると認識する。これは原理的に動物の目についてもいえることで、カエルの目は自分の方に向かって動いてくるものしか識別しないし、犬の目は色を識別できないから、犬にとってこの世界は無色の世界だ。ロボットも動物も、自分の目がとらえた世界がすべてだ、と思っている。とすると、人間の目だけはすべてをとらえつくしているという考え方は、単なる思い上がりにすぎないということは容易に納得がいこう。「色即是空」と釈迦が説いているのも、実はそういうことなのだ。 |
石仏との対話――石と石仏、それは自然と人間の心との結びつきであり、人間が敬虔な気持ちで石という自然の素材に、造形的に生命を表そうとしたものである。 人間と石との取組み、それはともすれば、石の強靭な質に負けてしまうばあいも多い。また技巧が著しく進みすぎて、石そのものの本質的な生命を失わせてしまうこともある。 岩を素材として仏を表すには、石そのもののもつ自然の美と硬質さを、充分に発揮させなくてはならない。そして工人の技能と、仏の崇高な精神が互いに歩みよった時に、初めて見事な野の芸術「石仏」の完成を見ることができよう。 |
心的エネルギー フランスの精神医学者、ピエール・ジャネは、つぎの四つを人間の行動を規定する根源的な「心的エネルギー」として提唱している。 一、努力の感情は行動を促すように働くが、それは生体=人間の「心的エネルギー」の量に余裕があるからである。 二、「心的エネルギー」が過度の消費により減退すると、「疲労の感情」が現れる。これが未来に向かう行動のブレーキとなる。 三、逆に、過剰の「心的エネルギー」が豊富に湧き出るが、それをよいことにして余分に消費される状態がある。これを躁的感情と呼ぶ。 四、「心的エネルギー」の枯渇。行動が停止するのみでなく、感情生活の色合いが失われる。これが分裂病の末期状態で、「心の死」を意味する。 これらのうち、「操られた心」は、二と四のエネルギー消失に向かう。その極端な心の病理の持ち主が、精神分裂病の患者なのである。 では、一と三の典型となる精神病理はどのような現れ方をするのであろうか。つぎに紹介するコミックな多弁・早口に、それがよく表現されている。 「やったな! と思ったな。月に人間が行ったんだろ。お月さまはいくつ、13、7つで、年をきいてくれたかな、月に言葉はないやね。「はじめにことばありき」か。ヤツの言葉だな。キリストだって奇跡をやってるね。あいつやせてるな、体重はどのくらい、うちのハカリを送ってやるか。もっともヤツは俺、きらいだね。長崎に行ったときね、ヤツの聖像を見た。皆バカヅラしてたな。「おらんだ坂に雨が降る」って歌があったね。だれだっけ、あれ歌っていた女は、美空ひばり、いや違う。うん忘れちゃった、代わりに俺が歌ってやるさ。なにいい声だって、あたり前さ、「静かなること林のごとく、動かざること山のごとし」(詩吟調に)。詩吟で鍛えた声だぁね。いいにきまっているさ。これぞまさに天性の声、恋は天性男女のものさ」 ざっとこんな具合、しゃがれ声で傍若無人に騒ぐ病んだ心の持ち主である。これが躁病の患者であることはいうまでもない。たしかに面白い。ギャグとかけ言葉の連続である。彼のこの文脈は観念のほとばしりに違いない。しかし、意図する観念は不毛であるばかりか、何を意図しているかわからぬといってよい。「心のエネルギー」の浪費でしかない。たしかに笑いを誘う。この笑いは束の間の感情のさざ波でしかない点にも注意する必要があろう。 患者のなかには、やたらに何にでも手を出すのがいる。ゆきずりの赤の他人と、百年の知己のようになってしまう。女性では性的放縦に走り、急に金使いが荒くなる。生活の軌道を脱線してとめどない行動が展開されるのである。これらの行動の分節だけをとればいかにも活動的であるが、現実に照応すると生産的なものではなく、線香花火のように空しくエネルギーが失われて行く。 要するに、それらの基本症状は、ふつうの生活では実体としてとらえがたい感情が、「枯渇」または「ほとばしり」として、激しく現れてくるのである。 観念や思考、行為にしても、ふつう、われわれの心では意識せずに統合される心の脈絡に照応しているのだが、あるばあい、とくに躁的な心性に陥ると、それらがバラバラな型となる。そして、精神分裂病では「生命感情」の枯渇が「心的エネルギー」の喪失に対応し、躁病では「ほとばしり」が「心的エネルギー」の浪費にいたることがわかる。 ジャネは、このように露に出てくる実体をとらえて、「心的エネルギー」と名づけた。そして、これが食欲や性欲のような生物的欲求とも違い、また一方、これが社会的要因によって駆使される高次の精神活動とも異なる点を明らかにしたのち、「心的エネルギー」は、人格形成の基本として、だれにもある個体特有のものと概念化したのであった。それはまた、本能とも情動(欲求プラス感情)とも異なる、人間特有の「生命感情」の発見に連なる画期的なものであった、といってよい。 |
1―うつ病とは何か 感情の病的な変化 躁病とうつ病とを合わせて、躁うつ病とよぶことはよく知られている。この病気は、感情の病的な変化が持続的に生ずるものである。 19世紀の末にクレペリンという学者は、「躁状態とうつ状態の周期的変動を繰り返すが、人格障害を生じない精神病を躁うつ病とよぶ」とこの病気を定義したが、現代の医学でもこの定義が受け継がれている。つまり、はしゃいだり、憂うつになったりの感情の病的な変化が、ようなったり、悪くなったりをくり返すが、人格は保たれている精神病だというのである。したがって、精神分裂病などとはちがって、人格のくずれはみられず、人間性はいつも保たれているのである。 [多重人格 多くの人格をもつが、統合された上にある(万民に当てはまる) 多重人格障害 多くの人格をもち、それぞれが統合されていない(万民には当てはまらない)] 躁うつ病の病像 躁うつ病の特徴を要約してみると、つぎのようになる。 (1)まず第一に、生命感情の障害を示す病気である。躁うつ病以外の精神障害でも、多少の感情障害はつねに認められるが、この病気のように第一義的な障害のものはない。 (2)患者の多くは発作性、周期性の経過をとり、[正常→病的状態→正常→病的状態]のような経過をとる。正常にもどるときは、ほとんど何の欠陥も残さない。 (3)この病気の予後は概して良好で、痴呆(後天性に知能が低下した状態)や人格のくずれを示すことはない。ただし、うつ病において、年余にわたって症状が持続するばあいには、身体的持病(たとえば、高血圧症、糖尿病、神経痛など)の合併、あるいは持続的な精神的ストレスの存在を疑うべきである。 躁とうつ――その臨床像 躁病とうつ病の臨床像は、つぎのようである。 [躁病] 感情は爽快になり、思考のテンポは早くなり、ささいなことに感激したり、立腹したりする。尊大で、高慢で、自信過剰である。表情は生気に満ち、声は大きく、早口で、行動も活発である。エロチックなこともよく口にする。 意志面ではじっとしていられず、たえず何かをしている。日記や手紙をやたらに書いたり、電話をかけまくり、乱買、浪費をする。よく歌い、しきりに人を訪問する。計画はつぎつぎにたてるが、途中で放棄することが多い。言動はまとまりがなく、軽率で、質的低下がみられる。思考は滑らかで、駄洒落や脱線が多く、同じことをよく反復する。ひどいばあいには、何を言っているのか分からず、錯乱状態を示すこともある。 思考内容は誇大的で、自分の地位や能力を過信し、健康や体力についても自信過剰である。将来を楽天的に考え、過去はばら色だったと回想する。これが進むと、誇大妄想にまで発展することもまれではない。 誇大妄想のなかには恋愛妄想(相手の意志にはおかまいなしに恋愛関係にあると信ずる)、血統妄想(自分の血統を自慢する)、発明妄想(くだらない物をつくっては、大発明したと自慢する)、宗教妄想(自分はキリストの再来だと信じている)などがよくみられる。 知能面では、知的活動はさかんで、一見したところでは知能が向上したようにみえるが、実際には表面的で、脱線が多く、飛躍的で、質的に低下している。注意は散漫で、判断は軽率である。注意散漫のために錯覚や誤認が多いが、幻覚はない。 身体面では、自律神経系が障害され、さまざまな身体的変化が生ずる。不眠(夜も眠らないで活動し、疲れを知らない)、食欲亢進(病状が進むと食欲不振になる)、性欲亢進、体重減少、寒さに対する抵抗の亢進、月経障害、尿量増加などがみられる。 注意すべきことは、躁状態といえども、うつ状態の混在がよく認められ、笑ったり泣いたりをくり返す患者が多いことである。 [うつ病] うつ病は臨床的には、躁病と反対の症状を示すが、既述したように、躁状態とうつ状態とが混在しているばあいも少なくないので、まったく正反対の症状を示すというわけではない。感情は悲哀的になりやすく、ささいなことも悲観的になる。嬉しいことにも反応しない。表情はさも悲しげで、ため息をついたり、涙を浮かべたりすることが多い。疲労感が強く、無気力で、おっくうである。歩行も前かがみに力なく歩く。胸が重苦しく、せつない気分である。 意志面では活動力が低下し、行動がのろまになる。話しかけられても、あまり話したがらない。ひどいばあいには昏迷状態といって、まったくしゃべらず、動かない状態になる。気分変動の激しい病気の初期と回復期には、自殺企図が生じる。 思考面では、思考のテンポはのろくなり、記憶、判断、計算などの活動も低下する。周囲の者はみな自分よりもすぐれていると考え、強い劣等感を抱くようになる。自分の将来、体力、能力など、すべてに自信がなく、悲観的に考える。過去はすべて失敗だらけだったと思う。 これらがさらに発展すると妄想が生ずるが、妄想では心気妄想(自分が不治の病気になっていると誤解し、信ずる)、貧困妄想(そんな事実はないのに、明日から一家が飢え死にするほど貧乏になったと信ずる)、関係妄想(他人に噂されている、じろじろみられているという誤った信念)などがよくみられる。 知能面では、注意は固着し、視野も狭くなる。思考のテンポが制止して、理解力、記銘力、見当識(時間や場所に対する正しい認知)などが落ちてくる。決断力や判断力も低下するが、これは知的障害というよりも、意志障害の結果である。 身体面では、自律神経系の障害により、さまざまな症状が現れる。不眠(早期覚醒)はほとんどの患者にみられ、浅眠、悪夢など、あらゆる型の睡眠障害が起こる。食欲不振、性欲減退、体重減少、暑さ寒さに対する抵抗力の低下、身体器官とくに胃腸系の障害がよくみられる。 仮面うつ病または仮面デプレッションとは、身体面の症状が強く現れ、精神面の症状があまり表面に出ていないうつ病の俗称であるが、精神医学的によく診察すると、精神症状はどの患者にも認められ、またそのいっぽうで、うつ病は多かれ少なかれ、必ず身体症状も示すものである。 神経症とどうちがうか 以下に、神経症とつ病との異なる点を示しておこう。 (1)神経症にも不眠の生ずることはあるが、その多くは入眠困難で、実際にはよく寝ている。うつ病の不眠は必発症状といってもよいくらいよくみられるが、これは早期覚醒型で、実際に睡眠量が著しく減少している。 (2)神経症は訴えは多いが、病像はそれほど深刻ではなく、しばしば自殺を口にしても、実行に移すことは少ない。 (3)うつ病では午前中に気分がすぐれず、夕方にもち直すといった気分の日内変動がみられる。 (4)病前性格は、ともにまじめな人間のばあいが多いが、神経症は概して自己中心的で、自分本位なのに比べ、うつ病では、自己を犠牲にしても他人につくすといった、他人本位の性格が目立つ。 (5)うつ病では、よく周期的な発病がみられるが、神経症ではそれがない。 (6)神経症では抗うつ剤はそれほど効果がなく、心理療法が治療の主役になるが、うつ病では抗うつ剤がよく効く。 (7)神経症で妄想(まちがっていること、ありもしないことを確信すること。いくらそれが誤りであると証拠をつきつけても訂正不能)のみられることはまずないが、うつ病では心気妄想、貧困妄想、被害妄想などのみられることが少なくない。 2―うつ病者の性格特徴 [31歳 男子 会社員] 有名大学を卒業し、現在は商社マンで、コンピューターの係をしている前途有望な青年である。これまでに3回うつ病になったことがある。趣味らしい趣味もなく、勉強や仕事以外にこれといって遊びはない。趣味をもたせようといろいろとアドバイスをしたが、どうもうまくいかなかった。小鳥を飼わせてみてもだめ、旅行させてみてもだめである。北海道に旅行をさせたところ、行く先々で大きな会社を訪問し、コンピューターを見学して帰ってきたこともある。 私は思いあまって、「パチンコでもしてみたら」といったことがある。翌週、彼の妻が訪ねてきて、「先生は、うちの夫にパチンコをしろといったのか」と詰問するので、その理由を尋ねてみると、患者はパチンコの機械を家に買いこんできて、朝から晩まで玉をはじき出したそうである。前に座ってバネをはじき、裏にまわって玉の動きを観察し、いかにしたら玉がたくさん出るかを、統計をとって研究しているというのである。私は驚いて、パチンコを中止するように指示した。(メンヘル型の電波) これをみても分かるように、患者の生活にはむだがなく、普通の人が遊びによって、人生のゆとりをつくっているのに対して、遊びがいつの間にか仕事や勉強になっているのである。 |