立川カプセルの朝食(セルフ) トーストとコーヒー |
ほんとうは別料金で¥300だった。 昨日早起きは三文の得とか思いながら食べたあと気づいたんだけど、今日も食べたあとに気づいたのでしたとさ おしまい |
「本来の自分を失えば、すべての事柄も見失ってしまう。 こころの真髄を見つければ、人生の道もみえてくる。」 蘭渓道隆 |
よい経験をした。顕正(警策で叩く)もしてもらった。いろいろ学んだ。座禅では肩の力を抜く、1m先を見る。半目でもいい。はじめは心経唱えた。長方形の座布団だった。 三八九(さんぱっく) 自分は自分ということ 人に惑わされないということ 静止する 心と体は一体で、心が動くから体も動く 取ろうとするから手が動く 静止しているといろいろなことが思い浮かぶ もやもやはないだろうか すっきりした気分で生きているか おしゃか様の願いは、結果には原因がある(因果) よい原因を作っていれば悩みもくるしみも解決する 解決するのが願い |
中村 元 |
ブッダ 真理のことば 第17章 怒り 221:怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。 222:走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人――かれはわれは<御者>とよぶ。他の人はただ手綱を手にしているだけである。 223:怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。 224:真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。 227:アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。 228:ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。 231:身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。身体について慎しんでおれ。身体による悪い行ないを捨てて、身体によって善行を行なえ。 232:ことばがむらむらするのを、まもり落ち着けよ。ことばについて慎しんでおれ。語による悪い行ないを捨てて、語によって善行を行なえ。 第18章 汚れ 239:聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、――鍛冶工が銀の汚れを除くように 241:読誦しなければ聖典が汚れ、修理しなければ家屋が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ、なおざりになるならば、つとめ慎しむ人が汚れる 253:他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は、煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔たっている。 第19章 道を実践する人 262:嫉みぶかく、吝嗇で、偽る人は、ただ口先だけでも、美しい容貌によっても、「端正な人」とはならない。 271,272:わたくしは、出離の楽しみを得た。それは凡夫の味わい得ないものである。それは、戒律や誓いだけによっても、また博学によっても、また瞑想を体現しても、またひとり離れて臥することによっても、得られないものである。修行僧よ。汚れが消えうせない限りは、油断するな。 第20章 道 276:汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(=修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。 280:起きるべき時に起きないで、若くて力があるのに怠りなまけていて、意思も思考も薄弱で、怠惰でものうい人は、明らかな智慧によって道を見出すことがない。 281:ことばを慎しみ、心を落ち着けて慎しみ、身に悪を為してはならない。これらの三つの行ないの路を浄くたもつならば、仙人(=仏)の説きたもうた道を克ち得るであろう。 282:実に心が統一されたならば、豊かな智慧が生じる。心が統一されないならば、豊かな智慧がほろびる。生ずることとほろびることとのこの二種の道を知って、豊かな智慧が生ずるように自己をととのえよ。 289:心ある人はこの道理を知って、戒律をまもり、すみやかにニルヴァーナに至る道を清くせよ。 |
八正道には、正しい考え方(正思)、正しい行いをする(正業)などあるけれど、正しい努力をする(正精進)・正しい見方(正見)をしていないものはやはり正しく話す(正語)ことはできない。 「自由自在」とは自分の由来と自分の在り方。と禅師さんは教えていた。 自分がほんとうに正しい自分であるならば、何物にも動じない。相手が虎であろうと悪霊であろうと。何を吠えていようが何をしていようが。餓鬼は餓鬼だから喚くのであり、それに惑わされるのは自分らしさに不備があるからだと思った(自由自在でない)。 愚衆が100人集まろうが賢者一人にかなわない。大円鏡の賢者の目にはやはり愚衆は愚衆としか映らない。賢者はやはり賢者の言うことしか聞かない。 いちいち批判に構えて普遍性をもたせなくてもいい。邪悪な者は言いたいことを言いたいように言うとき内実恐れながら言うが、正しい者はそうする必要など微塵もない。 貪瞋癡 ― 怒りがあると愚痴になる。 囚われがあると心がもつれる。体を制止するようにすれば心も動じなくなる。座禅では基本的に動かないのだけど、それを禅定という。世の中には因果があるけれどよい原因を自然に作ることができるようになれればいい。 学んだことを自己流に解釈していくと、やはり自分の霊性では、粗野なる書き方になる。禅師さんは粗がなかった。顕正は本来は「がんばってください」との励ましのためのもののようだ。顕正をするときにゆっくり一周するけどその歩き方と叩き方が本物だった。ゆっくりとか優しくは本当に難しいことだと思う。 とはいえたった1時間弱程度の座禅会で、こんなに成長できるとは思わなかった。泰然自若とするのは気持ちがいいなぁ。そのためには最高に霊性高いところでしっかり修行しないといけない。 |
朝食はセルフサービス | 南山荘はもともとは3万とかする宿らしい。10年ぐらい通い続けているというあの初老の方たちが話していた。上の方は高くて泊まれなかったらしい。こんないい造りした宿だからなぁと言っていた。去年はたいしたことないと思っていたけど値段による先入観だった。 |
快晴 |
ここ歩くの三回目 あそこの中学校がよかった 川沿いで青春だなぁ |
そして電車に乗る。18切符では何度も途中下車できるけど、鈍行の場合、東京―伊豆長岡―愛知ぐらいなら料金たいしてかわらなかった。途中下車しても+100円ぐらいの計算だった。ちょうど10万使った。床屋にも行ったし途中UNIQLOのYシャツとフィラのトランクス買った。 今回の旅はドンピシャが多かった。鎌倉から三島は1280円だった。あとで精算しようと思っていたけど精算機に入れると「,清算,の必要はありません」となって切符が出て来たので、150円ぐらい損したとか思っていたけどちょうどだった。小銭のある分だけで買ったのだった。 バスはちょっきりで到着する。何度も。ギリギリ乗れはじめている。去年の日記にはギリギリ乗れないことが書いてあった。元善光寺からは走った。走れば乗れるという位置付けだった。今ははや歩きでギリチョンだ。次第に、前以てできるようになれば少々の待ち時間が空くようになる。時間を見つつもそれに間に合うようになる。間に合わないのはつらい。それなら、と時刻表を持たないようになっていったのだった。。 先生にはカルマはなくなってると言われた。東京文化会館で席移動したらカルマになった。その行いに向けて心経を3かん唱えた。「俺も別にそれくらいいいと思うけどなぁ。座席も物だからかなぁ」と言っていた。まぁそれくらいのカルマならいいのだけど、霊性を高めたいのなら心に汚れになる行いはしないに超したことはない。席移動しましたおしまいではなく、長時間そこに座ってるわけだから。 清算の必要はありません状態がいい。軽い。 |
帰りに寄った浜松駅の串料理 串とも |
たくさん色紙があって退屈しない |